情報学研究科

急性ストレスへの適応を担う脳と身体のメカニズム

名古屋大学大学院情報学研究科心理学講座 教授 大平 英樹

 明日に迫った仕事の納期、重要な試験、上司からの叱責、他者との葛藤、など、我々はしばしば短期間ですが強いストレスを経験します(急性ストレス)。心理学では、このような場合、直面している事態が脅威であるか(一次的評価)、その事態への対処は可能か(二次的評価)、などの認知的評価が行われ、その結果により事態への対処準備のために交感神経系や内分泌系などの生理的反応の亢進が生じると考えられています。これらの認知的評価は脳で行われ、その結果に基づいて脳が身体反応を惹起していると考えられますが、その詳細なメカニズムはまだわかっていません。

 そこで私たちは、被験者に実験的な急性ストレスを負荷し、その際の脳活動(局所脳血流量)を15Oを核種とした陽電子断層撮影法(PET)で評価し、同時に脳波、心電図、血圧などの電気生理学的指標、各種ホルモンやリンパ球などの内分泌・免疫系指標を測定して、急性ストレスへの適応を担う脳と身体のメカニズムを探求しています。

急性ストレスへの適応を担う脳と身体のメカニズム

 その結果、時間圧をかけた暗算などの認知的ストレスを負荷すると、内側前頭前皮質、前部帯状皮質、前頭眼窩皮質などに顕著な賦活が認められました。内側前頭前皮質や前部帯状皮質は自己の状態の評価や、自己の行動の誤りの検出などを担っていると考えられています。また前頭眼窩皮質は報酬(よい結果)や罰(悪い結果)を、場面や文脈と結びつける機能があると言われています。急性ストレスへの認知的対処は、こうした前頭部の神経ネットワークにより担われていると思われます。この時同時に、心拍や血圧の上昇、ナチュラル・キラー(NK)細胞などの自然免疫細胞の一過性の増加などが観測されました。さらに、上記の前部帯状皮質や前頭眼窩皮質の活動が、こうした生理的反応の強さと相関していることが明らかになりました。これによって、前頭部神経ネットワークは、認知的評価の結果に基づいて、身体の生理的反応を調整していく機能もあることがわかりました。

急性ストレスへの適応を担う脳と身体のメカニズム

 さらに最近、強いストレスを長年経験した人においては(慢性ストレス)、こうした急性ストレスへの脳と身体の反応性が見られないことが明らかになりました。こうした反応性の低下は、直面している事態への対処能力を失わせ、精神的にも身体的にも不適応な状態を導くリスクを高めていることが予測されます。今後は、こうした現象の詳細な検討や、心理学的な介入により反応性を改善していく方法の開発が重要な課題となると思われます。

感情的意思決定を担う脳と身体のメカニズム

名古屋大学大学院情報学研究科心理学講座 教授 大平 英樹

 夕食に何を食べるか、どの商品を購入するか、どの企業に投資すべきか、私たちの日常生活は意思決定の連続です。伝統的な経済学理論では、人間は常に合理的な選択を行うと仮定されてきました。しかし現実には、複数の選択肢の正確な効用(満足度)が計算できない、あるいは効用がほとんど同じであるために、最善の選択肢が不確実である場合がほとんどです。こうした状況を表現したのが「ビュリダンのロバ」です。これは14世紀フランスの哲学者であるビュリダンが考案したと伝えられ、同じ距離にある同じくらい魅力的な2つの干草の山を前にした1頭のロバが、どちらを食べるかを決められず、ついには餓死してしまうという話です。私たちも、自動車や住宅など高額で重要な商品の購入を前に、同様な状況になることはないでしょうか?

感情的意思決定を担う脳と身体のメカニズム

 このような場合に人間は、しばしば、直感や感情に頼った意思決定を行います。近年の認知神経科学の研究により、こうした「感情的意思決定」では、脳だけでなく、身体の反応が重要な役割を担っていることが明らかになってきました。感情は扁桃体により起動されますが、同時に心拍・血圧の上昇、各種ホルモンの分泌などの身体反応をも引き起こします。その反応は求心性の経路で脳にフィードバックされ,島皮質や前部帯状皮質を介して腹内側前頭前皮質に投射され,意思決定に影響すると考えられています。このような考え方を「身体信号仮説(somatic marker hypothesis)」と呼びます。

 私たちは、意思決定を行う際の脳活動と身体の生理的反応を同時測定して、感情的意思決定のメカニズムを探求しています。例えば、一方の選択肢を選べば70パーセントの確率で当たり、もう一方の選択肢を選べば30パーセントの確率で当たるギャンブル課題(確率学習課題)を100回以上実行してもらいます。100回とも有利な選択肢の方を選べば、儲けを最大にできますが、被験者にはこの仕組みが知らされていないので、試行錯誤をしていくことになります。その試行錯誤の度合いを、情報学の概念であるエントロピー(H)という意思決定のランダムさを表現する変数で表すことができます。課題中に、交感神経活動の指標である血液中アドレナリン濃度が上昇するほど、意思決定は試行錯誤的になることがわかりました。この関係を島皮質の活動が媒介しており、腹内側前頭前皮質の活動との連携で、意思決定における試行錯誤の度合いが決定されていることが示唆されました。これは、意思決定場面で感情的になりカッカすると、冷静な計算ができなくなり、場当たり的な選択をしがちになる現象と似ています。
 これは一例ですが、このように私たちは心理学的な問題である意思決定を、脳と身体の観点から探求しています。

感情的意思決定を担う脳と身体のメカニズム

間主観性の脳科学 --ハイパースキャニングによる社会的相互作用の神経メカニズム研究--

名古屋大学大学院情報学研究科心理学講座 教授 田邊 宏樹

 これまでの社会脳に関する脳機能イメージング研究は、社会(認知)能力が個人の脳内でどのような神経基盤を持つか、あるいはどのような脳内表現になっているのかを調べる研究がほとんどで、そこでの実験手法は、絵や写真・文章あるいは動画を用いた課題を作成し、その刺激に反応する脳部位を同定するものでした。しかし、現実のコミュニケーション場面でのやりとりは、特定の対象としての「あなた」と私の関係という「二人称視点」をもち、リアルタイムでダイナミックな相互作用があります。このような対面コミュニケーションにおける「双方向性」と「同時性」は、刺激による各個体の反応のみに還元できず、間主観的な二個体相互作用系としてしか観察され得ず、ここに重要で本質的な要素が隠されているのではないかとの考え方が近年台頭してきています。

 このような考えに基づき、我々は二人の人間がMRI内で相互作用できる二個体同時計測MRIシステムやEEGシステム(ハイパースキャンシステム)を用いて、視線や言葉を介した共同注意や見つめ合いの神経メカニズム研究を進めています。これまでの研究の結果、共同注意のベースとしての見つめ合い時には互いの右下前頭回の脳活動に同調がみられること、この脳活動の同調は健常人同士でのみみられ高機能自閉症者と健常成人のペアではみられないこと、またその後の実験により、このような脳活動の同調はペア特異的で、特定のパートナーとの共同注意状態の痕跡としてその後見つめ合ったときの脳活動の同調として現れること、などを明らかにしてきました。今後はより自然な形のコミュニケーションや非言語だけでなく言語的なコミュニケーションにおける神経メカニズムの解明へと進んで行く予定です。

ネアンデルタール人の脳の仮想復元と新人ホモサピエンスとの脳形態比較研究

名古屋大学大学院情報学研究科心理学講座 教授 田邊 宏樹

 ヒトの進化の道筋に関する研究は、20世紀後半の遺伝学的研究により劇的に発展し、新人アフリカ単一起源説が主流となりました。そこから出てきた次なる疑問は、旧人ネアンデルタールと新人サピエンスの交替劇の原因が何であったかです。近年何が両者の運命を分けたのかについて多くの仮説モデルが提唱され、実証的研究も進んでいます。
 我々は、ヒト脳イメージングの手法を用いて、旧人および旧人と同時代に生きた新人の脳を仮想的に復元し、さらには新人の末裔である現代人も加え、三者の脳形態を定量的に比較するプラットフォームの構築を進めてきました。さらに、現代人の脳機能イメージング研究データから機能地図マップを作成し、旧人と新人の脳形態に差があった部位がどのような機能を持っていたのかを推測し、交替劇の要因について神経科学の側面から迫っていきます。