名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


8.医専から医大へ


熊谷幸之輔

 払下げ騒動後、雨降って地固まったのか、学校・病院の経営状態は次第に向上し、体制は著しく強化された。明治26年には本校の予備校的存在でもあった愛衆学校の廃校を機に、予科(定員200人、2年課程)が増設され、明治27年には、産婆及び看護婦養成所(1年課程)も付設される。この年、本校を中心に愛知医学会が組織され、『愛知医学会雑誌』が創刊されたことは、既にこの時代から、本校が単なる医師養成機関ではなく、学術機関としての自覚があったことを物語っていよう。

 熊谷は「我邦ニテ第二ノ大学ヲ見ルコトヲ得ムオリハ愛知医学校ヲモ此位ニ進マセムト欲」(森鴎外)する遠大な構想を胸中に温めながら、明治30年代初頭には東大卒14名を含む22名の教諭陣容を敷くなど体制強化に努めた。尚、熊谷は在任中、実に12名に及ぶ教諭を海外へ派遣し、2~3年の長期にわたって留学させてもいる。又、この間の教諭 川原汎の『内科彙講-神経系統編』、石森国臣の催眠性物質の研究などは今日高く評価されている。
 明治34年、千葉、仙台、岡山、金沢、長崎の5高等中学校医学部が各々官立医学専門学校として分離独立した。本校がこれら5官立校とは隔たった棘の道を、明治20年代前半から昭和初年まで歩まなければならなかった遠因は、明治19年の「中学校令」の5区制が著しく不均衡な地域区分で、中部の中心に高等中学校医学部が配置されなかったことにもあろう。明治36年、勅令48号は廃され、「専門学校令」が公布された。本校は愛知県立医学専門学校として新発足し、学則を新たに定めた。受験資格者に専検合格者が加わり、生徒は角帽で闊歩していた。卒業生は「愛知医学得業士」と称することができ、医学校とは一線を画す時代に入った。
 明治30年代末から40年代始めにかけて耳鼻咽喉科、皮膚花柳病科、神経精神科、外科第三(整形外科)が相次いで設置され、明治43年には2年課程の研究科も付設されて、院校共にその内容は極めて充実したものとなった。明治35年に本校を視察した菊池文部大臣は「建物は日本一汚い」と酷評したが、内容は大学昇格の資格ありと評価し、学校・病院の新築を促した。以後、県会の承認を経て、ようやく、鶴舞の地に新校舎・新病院が落成したのは、12年後の大正3年であった。総計26,000平方メートルの偉容は大学昇格の企図を外観でも表明していた。この大業を了えた熊谷は病を得、大正6年、36年にわたる院校経営の苦闘に終止符を打って退任する。
 大正7年の「大学令」及び高等教育拡張計画による5官立医専揃っての医大昇格計画に衝撃をうけた本校は、官立移管を見送り、それら官立医大昇格に先駆けて大正9年、一先ず、愛知県立の医科大学を実現させた。
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