名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


7.存亡の秋(とき)


 明治20年代前半は本校にとって存亡の秋であった。
 明治10年代末、凶作と松方デフレ政策による不況で地方財政は疲弊し、三重や岐阜など廃校に追い込まれた医学校も少なくなかった。加えて、文部省は乱立した府県立医学校を財政面から淘汰する意図で、勅令48号「... 明治21年以降地方税ヲ以テ之(医学校経営)ヲ支弁スルコトヲ得ズ」を発した。この措置に官立高等中学校医学部は無縁であったが、府県立医学校18校は僅か京都、大阪、愛知の3校に淘汰される結果となる。
 わが愛知医学校も廃絶されかねない状況にあったが、明治16年以来校長の任にあった熊谷幸之輔は自身の某医学部長の内命を蹴り、県知事の「不干渉、校長一任」の言質を取った上で、学校、病院教職員を一同に集め、「... 他校ガ廃校トナレバ転校生モ増エ、授業料ノ増収モアロウ。病院ハ開院時間ヲ延長シ、患者ヲ親切にアツカエバ、収入モ増加スルデアロウ。一方デハ経費ヲ節減スル... 月給モ減額スルカモ知レヌ... 」と同意を求め、独立採算の経営に踏み切った。
 熊谷の予測は的中し、他校からの編入生は200名を超えて生徒数は倍増した。授業料値上げ、職員の8時間勤務、婦嬰科の新設、生徒宿舎の病棟転用、教員の増員、カリキュラム改正等々の諸策が功を奏し、20年代初頭で、院校の経営は一応安定して、年間の純益は500円余を計上するまでになった。
 しかし、熊谷の目指す高等中学校医学部並みの水準には、教室の狭隘、医療機材の不足、解剖屍体の欠如、手術室の不備等すべての面で落差があり、500円余の剰余金ではいかんともしがたい状況にあった。更には教諭の退職金支給を考えれば、不時の災害等に対しては為す術もないことを熊谷は憂慮していた。
 この時「恰好シ大財主出ヅルアリテ、院校ノ払下若クハ貸下ヲ願ヒ... コレヲ永遠ニ守リ、コレガ整備ヲ謀ラムトシヌ。熊谷君ノ喜デ其説ヲ納レ... 」(森鴎外)たことから「院校払下げ」騒動が勃発する。
 「大財主」、即ち真宗三派が県知事に申請したこの請願は愛知県各新聞から攻撃の的となり、県会議員、開業医を中心とした世論の猛反対を浴びた。のみならず、生徒も又、380余名全員が京都府立医学校に転学を申し出、ストライキ突入の決意を表明し、熊谷の畏友森鴎外が熊谷擁護の論陣を張るまでに到る。結局、県知事の請願不裁可の指令によって、この騒動は、僅か3カ月(明治24年2-4月)足らずで収まったが、本校の存廃が賭った二度目の分岐点であった。同年10月、濃尾は激震に襲われる。本校は解剖局倒壊等の被災にもめげず救療班を組織し被災者の治療に当たった。
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