名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


2.幕末尾張の本草学


伊藤圭介の図譜

 本草学の担い手は江戸では大名旗本、大阪では豪商、京都では儒医が多かったが、尾張では尾張藩士・藩医が中心であった。その理由としては尾張藩の広大な薬園の存在が挙げられている。この薬園の監守を勤めていたのが幕末本草学者の多くが座右の書とした『物品識名』の著者、水谷豊文であった。
豊文は大河内存眞、伊藤圭介らの門下生など同好の士と語らって本草学結社「嘗百社」を興した。嘗百社は月1回、例会を持ち、蒐集品の品評など研鑽に努め、又、ほぼ毎年、物産会(薬品会、本草会、博物会)を催し、植物・動物・鉱物の標本、写生図、化石、考古出土品などを展示、供覧した。
この尾張本草学は隣国の美濃にも波及し、美濃蘭学者神田柳渓、江馬活堂、飯沼慾斎らによって独自の発展を遂げる。尾張、美濃の本草学が主に蘭学者によって支えられたことがこの地の本草学の特色であろう。

 文政9年(1826) シーボルトは江戸参府随行の途上尾張熱田の宮で、嘗百社の水谷豊文、大河内存眞、伊藤圭介らと邂逅したが、豊文の植物写生図をみて驚嘆した。既に豊文は102種の植物の全てをリンネの名称で同定していたのである。嘗百社の本草学が近代植物学を十分、受容しうる水準にある、と評価したシーボルトは参府の帰路、再び、嘗百社の面々と懇談したが、その際、二十代半ばの若い圭介に注目したのか、長崎遊学を慫慂した。

文政10年から翌11年(1827-1828)まで長崎に滞在し、医学ではなく本草学研究者としてシーボルトに師事した圭介は、シーボルトの博物学採集の良き助手でもあった。圭介がシーボルトに送った日本産植物の押し葉帖14冊は今日、オランダのライデン博物館に蔵されており、又、`Keisukei'`Keisukeana'と圭介の名を学名に冠した日本産植物はスズラン、イワナンテン、イヌヨモギなど15種に及ぶ。

 圭介が長崎を去るに当たってシーボルトは餞別としてツュンベリの『フロラ・ヤポニカ』を送った。帰藩後、圭介は『フロラ・ヤポニカ』を翻読研究して、この書に採録された日本植物のラテン語名に和名と漢名を与えた『泰西本草名疏』上下2巻本を文政12年(1829)、名古屋で刊行した。本格的にリンネの植物分類法を紹介した本書の意義は大きいが、このリンネの分類法と図譜とを併せた日本植物大成の夢を圭介は果たすことはできなかった。30年後の安政3年(1856)から文久2年(1862)かけて出版された大垣の本草学者飯沼慾斎著『草木圖説』によって、圭介の夢はようやく実現する。圭介は「其説之詳悉其図之精微... 余心多年之憾於是乎始釈矣」と序文を寄せ心から祝福した。

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