文政9年(1826) シーボルトは江戸参府随行の途上尾張熱田の宮で、嘗百社の水谷豊文、大河内存眞、伊藤圭介らと邂逅したが、豊文の植物写生図をみて驚嘆した。既に豊文は102種の植物の全てをリンネの名称で同定していたのである。嘗百社の本草学が近代植物学を十分、受容しうる水準にある、と評価したシーボルトは参府の帰路、再び、嘗百社の面々と懇談したが、その際、二十代半ばの若い圭介に注目したのか、長崎遊学を慫慂した。
文政10年から翌11年(1827-1828)まで長崎に滞在し、医学ではなく本草学研究者としてシーボルトに師事した圭介は、シーボルトの博物学採集の良き助手でもあった。圭介がシーボルトに送った日本産植物の押し葉帖14冊は今日、オランダのライデン博物館に蔵されており、又、`Keisukei'`Keisukeana'と圭介の名を学名に冠した日本産植物はスズラン、イワナンテン、イヌヨモギなど15種に及ぶ。
圭介が長崎を去るに当たってシーボルトは餞別としてツュンベリの『フロラ・ヤポニカ』を送った。帰藩後、圭介は『フロラ・ヤポニカ』を翻読研究して、この書に採録された日本植物のラテン語名に和名と漢名を与えた『泰西本草名疏』上下2巻本を文政12年(1829)、名古屋で刊行した。本格的にリンネの植物分類法を紹介した本書の意義は大きいが、このリンネの分類法と図譜とを併せた日本植物大成の夢を圭介は果たすことはできなかった。30年後の安政3年(1856)から文久2年(1862)かけて出版された大垣の本草学者飯沼慾斎著『草木圖説』によって、圭介の夢はようやく実現する。圭介は「其説之詳悉其図之精微... 余心多年之憾於是乎始釈矣」と序文を寄せ心から祝福した。 |