名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


6.愛知医学校長後藤新平


後藤新平考案の桃と蛤をあしらった卒業証書

 ローレツの去った直後の明治13年(1880)5月に校長心得、翌14年10月には改称された愛知病院、愛知医学校の院長、校長となった後藤新平は、前校長横井信之の方針を承け、高給の外人教師を排し、日本人教師を雇用する人事に踏み切った。御雇い外人時代への訣別である。
 東京大学卒業の鈴木孝之助、奈良坂源一郎、熊谷幸之輔、小倉開治らを一等教諭に擁したその教諭布陣と、ローレツ遺産の4年制度カリキュラムに、より体系的階梯「総論、各論」を加味した新カリキュラム(明治14年改訂)とは、両々あいまって、「医学校通則」の求める基準-学科目、修業年限、授業日数、東大卒医学士数-を、一部自然科学科目を除けば全てを、悠々超えていた。

 明治16年1月、卒業すれば医師開業免状が得られる 甲種医学校の認可を本校が容易に獲得できたのは、ローレツの築いた教育体制と後藤の教諭人事とが基盤にあったからこそであろう。

 明治15年4月6日、自由党総理板垣退助は岐阜講演の際、凶刃に斃れた。「板垣死すとも自由は死せず」の名句で知られた事件である。往診を求める電報が後藤に届くが、政府を恐れる県庁は許可しない。再三の電報に意を決した後藤は岐阜へ二人牽き人力車で駆けつけ、「御本望でしょう」と一喝し、リスター氏消毒を施した。この時、板垣は後藤の言動応対から放胆な決断力を感知し、政治家でないことを惜しんだ、と伝えられている。
 ローレツは院校中、後藤に最も嘱望し「自己ノ子ヲ愛スルガ如」くにして薫陶した。ローレツは石川県病院に転ずる折も後藤を伴おうとし、後藤も又随行を望んだが、県庁が名古屋残留を切望しため断念した経緯がある。後藤がローレツから承けた最大の贈物は衛生行政思想と、西欧実証科学的発想法-意表を突いた着想の基に、必要データを細心周到に収集し、その上に綿密壮大な計画を構築する-との二つであった。この延長線上に、以後の後藤の人生はある。
 後藤は、既に二等診察医時代、ローレツの意を体した「健康警察(衛生行政)医官ヲ設ク可キノ建言」を県庁に提出し、更に、衛生局長長与専斎にあてて「愛知県ニ於テ衛生警察ヲ設ケントスル概略」を提出した。又、県下の 医師を組織して私立衛生会「愛衆社」をも組織した。
 今日の本学『大学一覧』に繋がる『愛知県公立病院及医学校報告』を創刊したのも後藤であった。
 明治16年(1883)1月、長与専斎局長の下の内務省に入った後藤は〔衛生行政思想〕を行政の中に身を置いて実践した。以後、台湾、満州の植民地行政官を経て、政界に入る。その政策は、発想の突飛さに大風呂敷とも評されたが、必ず、緻密な調査統計と衛生行政思想に立脚したインフラストラクチャー整備とに裏付られていた。今日、「科学的政治家」と称されるゆえんである。
名古屋大学附属図書館医学部分館  
  このサイトについて ご利用方法 著作権およびリンク
関連資料・機関へのリンク集 企画展のご案内プリント用HTML一覧
 
名古屋大学附属図書館医学部分館 住所:〒466-8550 名古屋市昭和区鶴舞町65 Tel:052-744-2506 Fax:052-744-2511
Copyright (c) Nagoya University Medical Library. All rights reserved.