名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


10.官立医大から帝大医学部へ


 名古屋医科大学の附属図書館は、後藤新平の「典籍縦覧所」構想以来半世紀を経て、本学が始めて持つことのできた正規の図書館であった。3階建1,355平方メートル、黄土色タイルで装われた新図書館が開館したのは、昭和7年3月1日である。その前日(2月29日)、田村春吉が学長に任命された。田村は本学の官立移管の条件「十年間政府無支弁」を承知の上で、鳩山文部大臣に本学への政府金支出を内諾させ就任した。事実、政府支出金は昭和7年度7万円、8年度15万円と跳ね上がって行く。
 県支出と政府支出を併せて20万円が確保され、附属医院経営も勝沼医院長の手腕により軌道に乗ると、諸設備、備品購入の余力も生じてくる。田村学長は限られた予算を教室に均等配分せず、中央経費として一括留め置きし、毎年計画的に設備・備品費に投入した。数年後本学には、レントゲン大学と称された程、レントゲンを始め各種の輸入機器が備付けられるに至る。
 発足時の紛糾も鎮静化し財政基盤も安定した昭和10年頃から総合大学設置運動が再燃するが、時期は最悪であった。日本が国際的に孤立化し、日中戦争に突入しつつあったこの時期、当然、戦時財政に帝大新設の余力はなく、地元の全面的負担と、地場の軍需産業と直接関連づけ得る理工系大学構想が必然的に求められる。
 田村学長は挨拶代わりのように、地元の政・財界人に医・理・工3学部からなる名古屋帝国大学プランを説いていた。昭和13年1月、遂に田中愛知県知事は博物館建設構想を帝大創設に切変え、文部省にその設置援助を申し入れた。以後、本学、愛知県、文部省の三者協議で具体案が作成され、文部省と大蔵省との折衝が続けられた。
 昭和14年3月13日、貴族院本会議において、「名古屋帝国大学創立に伴う特別会計及び... 」等関係法案が可決され、本学は昭和14年4月1日をもって、内地では第7番目-最後-の帝国大学となることが決定した。
 しかしその内容は、名帝大創設にかかる経費900万円全額と所要敷地とを愛知県が国に寄付(別に、附属図書館と講堂を現物寄付)する、学部は医学部と理工学部との2学部(但し、近い将来に理学部の分離独立含み)とする、と言う厳しいものであった。その後の第二次世界大戦、戦災、敗戦と言う時代の推移は、本学の本格的な総合大学化を戦後まで押しやることになる。
 寄付された東山地区に将来的には移る予定であったが、当面、本学部は鶴舞地区に留まることになった。渋沢総長のもと、医学部長に田村、附属医院長に勝沼が就任し、解剖3、生理2、生化、病理2、細菌、衛生、法医、内科3、外科2、整形、産婦、眼、精神、小児、皮・泌、耳鼻の計24講座をもって、名帝大医学部は発足した。

名古屋大学附属図書館医学部分館  
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