名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


1.幕末尾張の医界


経絡人形

 わが国で西欧科学技術の受容能力(語学・理解力)が必要水準に達したことを証明したのは、杉田玄白らによって翻訳刊行された『解体新書』であった。同時に、この解剖書は、西欧医学の科学的実証精神の根源「解剖」の概念を本邦にもたらした記念碑的な翻訳書でもあって、この意味で、日本近代医学の起点とも見なされている。「おためし場」で名古屋初の腑分け(人体解剖)が行われたのは、この『解体新書』刊行後半世紀を経た文政4年(1821)のことであった。
 以後、多数の医学書がオランダ語から日本語に翻訳され流布したが、西欧医から西欧医学を直接的、本格的に学ぶには、シーボルトの来日を待たねばならなかった。文政6年(1823)、オランダ商館付き医師として来日したシーボルトは、市場調査のために開けた風穴 -鳴滝塾- で日本の病者に対し診療を施し、シーボルトの教えを求めて馳せ参じた幾多の蘭学者に対し諸科学を講義し、レポートを提出させるなどして教育した。
 彼の教育は体系的ではなかったが、西欧の医学、自然科学を直接日本人にオランダ語で講義した点で、明治初年の御雇外国人教師からの西欧科学直接受容の先駆けであった、と言えよう。彼の門下生の殆ど -伊藤玄朴、戸塚静海、竹内玄同、伊藤圭介など約60名- は、維新前後、「蘭学」の担い手となったのである。
 西欧の体系的医学教育をわが国にもたらしたのは、安政4年(1857)長崎の海軍伝習所に医学教師として着任したオランダ軍医ポンペであった。ポンペはユトレヒト軍医学校に範をとったカリキュラムによって、松本良順、長与専斎、佐藤尚中ら明治初期、日本の医界の中心的人材を育成した。因みに、本学の前身公立医学講習場へ訳官として着任した司馬凌海、公立医学校長を務め、名古屋城堀端に私立医塾「好生学舎」を興した横井信之、三河の私立医塾「蜜蜂義塾」を開いた近藤担平もポンペらに教えを受けた人々である。

 このように、シーボルト、ポンペらの直弟子は故郷に洋病院・洋医学塾を開いて、あまたの孫弟子を育成し、この孫弟子は又、曾孫弟子を養成して、次第に蘭方医学は日本全土に浸透する。遂には、町医、村医の間にも蘭方医が輩出し、多くの漢方医も又、蘭方医学を部分的に摂取して「漢蘭折衷医」となるに至る。これら蘭方医、漢蘭折衷医が津々浦々に存在したことは、日本において極めて短期間に種痘が普及し、近代洋医学校が続出した要因ともなる。  尾張においても、『英告利国種痘奇書』を著し牛痘法を紹介した伊藤圭介らによって、嘉永5年(1852)、広小路大津町に藩の種痘所も設置される。  しかし、純漢方医は猛反発し、尾張漢方医学の殿堂「医学館」館主浅井柴山が、種痘所取締まりの一人石井隆庵を「牛病ヲ取テ我ガ神国ノ人ニ接ス... 汝ノ如キハ是レ国賊ナリ犬豚ナリ」と殴打する騒ぎまであった。

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