明治3年(1870)春以来、名古屋の藩知事徳川義宣は風邪をこじらせ病床にあった。侍医山田梁山、中島三伯は肺癆と診断。半年治療を続けたが一向に治癒しないので、東京からポンペの高弟松本良順の往診を仰いだ。「... 公の病は気管支カタルにして、漢医輩ひたすら温保するを以て、少しく新冷空気を吸入するや、咳嗽を発し、発熱するなり。余は幸いに、最上のキニーネを携えたれば... 進呈するに、二包にして全く解熱し去れり」。
種痘や外科手術だけでなく、内科においても「漢医輩」が衰退せざるを得なかった時世を象徴する医潭であるが、すくなとも中島三伯は、純「漢医輩」ではなく、松本良順や佐々木東洋に洋医学を学んだ漢蘭折衷医であり、明倫堂を改革した医学校構想に関心を抱くなど、決して時流に目を背けてはいなかった。
明治初年、種痘による天然痘からの解放、コレラ、性病治療、外科手術などによって示された西欧医学の威力に目を開かされた医師達は、洋医学校設立の必要性を痛感していた。
この名古屋の地でも、一等医内家御雇の石井隆庵、伊藤圭介、義宣侍医の中島三伯の元奥医師3名は連署して、洋医学校を名古屋にも設立すべきことを名古屋藩に建議した。明治2年ないしは3年のことである。その主旨は以下の通りである。
西欧医学ヲ学ボウトシテモコノ尾張ニハ洋医学校ガ存在シナイノデ、他藩ヘ出向キ限ラレタ月日ノ中デ苦労シテ修学セザルヲ得マセン。誠ニ遺憾デゴザイマス。
コノ地ニ洋医学校ヲ設立シテ、原書ヤ翻訳書ニヨッテ講義シ、医化学ヤ薬学ヲ教授シ、又、解剖、診療ヲ行ッテ洋医学ニ志シノアル子弟ヲ教育シタイ、ト我々ハ日頃、念願シテオリマス。
カネガネ我々ハ洋医学校実現ニツイテ談合シテ参リマシタ。ガ、恰好ノ施設モナイトコロカラ取リ敢エズ、種痘所ヲ兼用デ「医学所」トシヨウトシマシタ。シカシ手狭デ、春秋ナドハ数百人モ集ルコトニモナリ、大変困ッテオリマスガ、増築シヨウニモ資金ガゴザイマセン。
何卒、官命ヲモッテ市中ニ洋医学校ニ相応シイ規模ノ建物ヲ賜リタイト存ジマス。ソノ暁ニハ種痘所モソノ建物ニ移転サセ、又、医学講習ノ余暇ヲ病院トシテ活用シ病人ノ診療ヲ行エバ、極メテ有意義カト存ジマス。
本学の創設も又〔種痘所→洋医学校〕型に属することを示すこの建議書は、提出先、年月、経緯については詳らかではないが、明治3年10月、隆庵、圭介両名の病院開業係任命、明治4年8月、仮病院、仮医学校開設、という史実に進展していることから、隆庵、圭介、三伯の3名は開学の祖の栄誉を担っている。 |