ウィーン大学を卒え、内科、外科の両学位を持つアルブレヒト・フォン・ローレツは、明治9年(1876)5月、ヨングハンスの後任として公立医学講習場へ着任した。
明治初年愛知県公立病院外科手術の図
ロキタンスキー、スコーダ、ヘブラ、ビルロートらによって樹立された新ウィーン学派の洗礼を受けたローレツは、従来の英語に替え、ドイツ語をもって授業を開始した。訳官は司馬遼太郎の『胡蝶の夢』のモデルともなった司馬凌海である。ローレツは当時の本校の様子を故国の医事週報誌上で「... 教科書はアメリカ式の問答式便覧が数冊あるだけで... 教材とてなく... 彼ら学生の最年長は27歳最年少は14歳で... 何の予科的知識もなく医学本科の知識も予想通りゼロに等しい...素読した本や外国人教師の講義から得た断片的なきまり文句や命題に甘んじている... 凡そ誰かが学者になるためには長年に亘る勉学強靱な精神力が必要であるということが、日本人には中々理解できないのである... 」と慨嘆している。 |