名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


5.洋医学校の確立


 ウィーン大学を卒え、内科、外科の両学位を持つアルブレヒト・フォン・ローレツは、明治9年(1876)5月、ヨングハンスの後任として公立医学講習場へ着任した。


明治初年愛知県公立病院外科手術の図

 ロキタンスキー、スコーダ、ヘブラ、ビルロートらによって樹立された新ウィーン学派の洗礼を受けたローレツは、従来の英語に替え、ドイツ語をもって授業を開始した。訳官は司馬遼太郎の『胡蝶の夢』のモデルともなった司馬凌海である。ローレツは当時の本校の様子を故国の医事週報誌上で「... 教科書はアメリカ式の問答式便覧が数冊あるだけで... 教材とてなく... 彼ら学生の最年長は27歳最年少は14歳で... 何の予科的知識もなく医学本科の知識も予想通りゼロに等しい...素読した本や外国人教師の講義から得た断片的なきまり文句や命題に甘んじている... 凡そ誰かが学者になるためには長年に亘る勉学強靱な精神力が必要であるということが、日本人には中々理解できないのである... 」と慨嘆している。

 ローレツの着任時に起工した天王崎町の洋風新病院・新校舎が明治10年7月完成したが、学校は半年間休校の措置をとった。この間ローレツを中心に、3年制カリキュラムの採用、在校生の試験によった再編成、新規の生徒募集、教員の専門分担の明確化、ドイツ医学書の多量購入等々の新体制造りが進められた。ローレツは又、病院の患者を疾患別に分け、重患は特別室に移し、カルテを整理分類し、医師の勤務ローテイションも編成して、病院運営の基礎を固めた。
 本校は明治11年2月、待望の開講式典を挙げ、次いで同年4月、校名も公立医学校と改称して、名実ともに洋医学校としての体を整えるに至った。
 明治12年4月、更に雇用期間を1年延長されたローレツはカリキュラムを4年制(1日6時間→5時間)に変更し、同年の冬学期より実施した。法医学、衛生・医事行政を含むそのカリキュラムは、ウィーン大学での自身の体験に基づくものであろう。ローレツの講義は内科、外科、社会医学に亙るが、一種の公開講座「断訟医学」(法医学)は本学初の学術誌『医事新報』に連載され、その内容を今に伝えている。因みに明治12年当時、本校の規模は校長以下教師教諭11名、生徒数97名であった。明治13年4月、満期解雇となったローレツは、校長代理後藤新平の切々たる送別の辞に送られ、本校を去った。
 来日前ウィーンで精神病院医師であったローレツは又、愛知県に癲狂院設立を建議、その実践として本院内に小癲狂院を建設し、更には東京府癲狂院の建築計画をも答申している。「汚水排導法」「健康警察医官ヲ設ク可キノ建言」等衛生行政上の建議も含めてその先駆的業績が、今日、日本近代医学史の枠組の中で見直されつつある。

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