名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


11.戦災から復興へ


戦災前の医学部

空襲直後の医学部

 「支那事変」の拡大に伴って軍医の充足を迫られた政府は、昭和14年5月、急遽、帝大医学部及び官立医大に中学校卒業者を対象とした軍医速成コース「臨時附属医学専門部」を付設した。従って、本学では医学部と専門部とが同じ昭和14年度に発足したことから、専門部では教室や臨床実習の場の確保に苦慮し、市内病院にまで協力を仰がなければならなかった(後、陸田ビルの寄贈を受けて病院に改装し、専門部の臨床実習の場とした)。
 昭和15年度、理工学部が開講され、本学部では航空医学講座2講座が増設される。尚この年、用紙が統制配給となり、明治33年以来続いた学友会誌が休刊となった。
 昭和16年12月、遂に日本は太平洋戦争に突入する。医局員は次々と軍医として応召、医学生も市内各病院へ学徒動員されるに至った昭和19年3月、中国南京の国民政府首席汪兆銘が本医院へ入院した。軍では汪を「梅号」患者と称し、厳秘体制のもと、斎藤、名倉、勝沼、田村、三矢教授らが主治医団として治療に当ったが、同年11月死去。遺体は空路中国大陸へ帰った。
 既に敗色濃厚となった昭和20年3月、アメリカ空軍は3回にわたって名古屋市を集中爆撃した。この空襲で名古屋市街は3分の2を焼失、本学部も建造物の63%を失って壊滅状態となったが、入院患者には一人の被災者も出さなかった。翌4月には国民学校初等科以外、全学校の授業が向こう1年間停止にまで日本は追詰められる。
 市中最大の治療機関としての附属医院は疎開できず、又、基礎・臨床教室の疎開も遅々として捗らずにいた8月上旬、広島、長崎と続けて原爆が投下された。同15日、天皇は無条件降伏することを全国民にラジオで告げた。
 戦後直ちに、各教室は鶴舞に集結しようとしたが、キャンパスは焼崩れた瓦礫の山であった。20年末、市内の昭和塾堂を借用して細々と講義が開始された頃、渋沢総長は辞任。後任に本学初の公選制によって田村が選ばれ、医学部長、医院長も公選制によって、戸刈、斎藤が選出された。田村は文系諸学部と農学部との創設-田村構想-を打ち出し、まず、文学部と法経学部を実現させる。
 本学部学友会は昭和22年から25年にかけて全国行脚で復興費を募金し、木造モルタル塗りの応急建築ではあったが、各教室や講義室を再建した。附属医院も焼残りの病院・病棟を応急修理して診療を旧に復させた。
 昭和22年、本学の名称から「帝国」の2文字が消え、同24年には学制が改められ、新制大学として「新生」する。以後、医学部は10年計画、病院は5年計画で新営され、今日に至っているが、現在、躍進する医学の研究、教育、診療に即応すべく、この鶴舞地区の全面的再開発が進められている。

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