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交換留学経験者からのメッセージ 2007年

2007年 留学体験記 「赤ちゃんに還って」

音羽 奈保美


期間:2007年3月26日~6月15日
場所:アメリカ合衆国ペンシルバニア州 University of Pennsylvania
実習先:Division of Pulmonary Medicine , The Children's Hospital of Philadelphia; Division of Cardiology, The Children's Hospital of Philadelphia; CHOP Newborn Care at Pennsylvania Hospital, Pennsylvania Hospital

出国

その日、期待と不安で胸をいっぱいにし、余分な荷物でスーツケースをいっぱいにし、精一杯の強がりを言って名古屋を出ました。
飛行機の中でふと、頭に浮かんでくる言葉。
「いままで周りの人から守られ、意識せずとも『普通』であったことが、すべてそうでなくなります。もういちど『自分』を創り直せる機会だと思って、がんばってきてくださいね。」
出発する前に学部長にいただいたお言葉です。そのときは、その言葉の深さがまだわかりませんでした。

CHOP
私が実習の機会を得た、The Children's Hospital of Philadelphia (以下CHOP)は、小児病院として独立した存在であると同時に、University of Pennsylvaniaの小児科としても機能しています。150年の歴史を誇り、Pennsylvania州はもちろん、周辺のNew Jersey州やDelaware州にも広がるhealth care networkの中核を為す存在です。米国内でも有数の研究施設で、想像し得るありとあらゆる診療科が備わっており、設備面でもスタッフ面でも大変恵まれた病院です。優れた教育施設でもあり、多くのresident(初期研修医)やfellow(後期研修医)、そして医学生たちが日々教えを受けています。
私ははじめの2ヶ月間をCHOPの呼吸器科と循環器科、3ヶ月目はPennsylvania HospitalのNewborn Careで過ごしました。

とまどい
小児病院。
そこには想像以上にさまざまな問題を抱えたこども、そしてその家族がいました。
かぜで入院、のこどもはどこにもいません。呼吸器科ではcystic fibrosis (CF)で入院している患者さんが大半を占めていましたが、コンサルトではmental retardation/cerebral palsy (MR/CP)や神経筋疾患でtracheotomyが入っている、いわゆるtechnology-dependentな患児をみることも多かったです。
たくさんのモニターにつながれ、たくさんの穴が身体に開いている。管がささっている。自分の力で自分の体重を支えることができない。自由に動くことができない。常に誰かがそばについていなければいけない。自分の伝えたいことが伝えられない。
来る日も来る日も複雑な問題を抱えた患児たちと会い、正直とてもショックでした。
高度医療ってなんだろう。誰のための高度医療なんだろう。
同時期に、CHOP residentによる途上国研修報告会が開かれました。汚染された生活環境、病院へのアクセスの制限、医療物資の不足、国民に対する教育の不足、国民の知識・認識の不足。医療的側面から見ただけでも問題は山積みでした。私たちの感覚でいけば「治る」はずの病気で命を落とすこどもも珍しくありません。
もっと医療資源を必要としているこどもたちが、いるんじゃないか。
そんな葛藤が自分の中で日に日に大きくなってゆき、次第に患者さんの病室で過ごす時間が少なくなっていました。自分の中の、高度医療に対する迷いから、患者さんと向き合うことを避けてしまっていたのです。

出会えた笑顔
そんなとき、友人にメールを送りました。
「ちょっとoverwhelmingな日々にまいってる。」
そのメールを送った次の日、コンサルトで顔を知っていた患者さんとそのご家族に偶然廊下で会いました。
"Hi!" と、患者さん。 "Hey" と、私。
「ずっと病室にいると息がつまっちゃうからね、お散歩、お散歩」、と付き添いのお母さんが話しかけてくれました。
30代前半の男性で、Duchenne型筋ジストロフィーの患者さんです。自分で動くことはほとんど困難で、かろうじて表情筋のコントロールはできる、そんなベースラインのようでした。フォーカスのはっきりしない痛みを主訴に入院中でしたが、そのコントロールが難しく、なかなか改善しない状況でした。目を開いているのもやっとというほど、体力も消耗していました。体調の話から始まり、「Naomiは日本から来たんでしょ?」と、日本の話、「ぼくも実は日本人の友達がいたんだ」と、友達の話。彼は丁寧に、丁寧に、言葉を紡いでくれます。説明が必要な箇所は、お母さんが補ってくれます。
そして次の患者さんの元へ行かなければならなかったので、 "Better get going. See you again soon, 'k?" と声をかけると、 "See ya" と、笑顔を向けてくれました。そのときの患者さんの笑顔はとても優しく、本能的にそれを最高に "beautiful" だと感じました。
その日の夜、友人からの返事には、こうありました。
「高度医療がすべて悪いとは思わない。けど、その情熱を少し途上国のこどもたちにも分けてほしいなって思う」、と。そして、「高度医療技術がなければ出会えなかった患者さんもいるわけだし、見られなかった笑顔もある」、こう続いていました。短い言葉の中に、友人のあたたかさを感じました。同時に昼間会った患者さんの顔が思い浮かびます。
そして気づきました。
すべては自分勝手な思い込みだったんだ。
価値観はひとつじゃない。私のモノサシですべてを測ろうとするなんて、ただの思い上がりだ。必死で生きている患者、必死で守ろうとする家族の愛に対して失礼だ。「生きる」ということの意味は、きっとひとりひとり違う。私がどれだけ力になれるかはわからないけれど、この答えのない問いについて、ひとりひとりの患者さんと向き合い、一緒に考えていく努力をしていこう。
医療格差だって、経済的な理由、政治の理由、それぞれの国の事情があって生じている。途上国の医療も、その地域の眼で見つめてみれば、きっと進歩している。大切なことは、少し先を見ながら、今できる最善のケアを提供することなのかもしれないな。
こうして、「高度医療の意義」に立ち止まっていた私は、友人のシンプルな言葉と、なにより、廊下で声をかけてくれた患者さんの笑顔のおかげで一歩前進することができたのです。小さな出来事でしたが、一気に身体が軽くなったような気がしました。

ICNとの出会い
最後のローテーションで行かせてもらったのは、Pennsylvania HospitalでのIntensive Care Nursery(以下ICN)でした。新生児室に入るのはほぼ初めてで、初日は異次元に迷い込んだような気分にさえなりました。ユニット内の静かな空気。聞こえてくるのはモニターの警告音ばかりです。そこの住人はほとんど動かない、手のひらにおさまってしまいそうな、小さなちいさないのち。まだ発生学の教科書に出てきそうなお顔をしている子もいます。所見をとるのにもおっかなびっくりでした。
それまでの診療科では、はっきりとした「入院目標」があったのに対し、ICNで行われているケアは一見、ゴールがないようにも思えます。どこどこのラインまで患児の状態を上げれば退院、というわけにはいかないのです。はじめの1週間は、ただひたすら看護師さんのプレゼンテーションを聞いていました。
ある日、何気なく、隣のチームの赤ちゃんのisoletteをのぞきました。彼女に会うのは1週間ぶりでした。そして気づきました。
...成長している!!!
当たり前と言えば当たり前です。成長しなければ困るし、逆に成長するからこそ生じてくる問題もあります。病状によっては、「成長」が「タイムリミット」のように感じられることもあります。
それでもやっぱり、彼女は大きくなっていたのです。少しさわるだけでただれてしまっていた皮膚は、うっすらとうぶ毛が生え、身体は一回り大きくなっていました。
その瞬間、全身が震えました。「ICNの患児」ではなく、ひとりの愛おしい存在に思えました。生命のたくましさに触れたような気がしました。
「きみたちにできることは患者さんから学ぶこと。それだけです。」
尊敬している母校の先生に言われた言葉をかみ締めました。
たった700gの身体で、彼女は大切なことを私に教えてくれたのです。
「私は生きている」、と。

「ありがとう」の気持ちで生きること
実習初期にあった、「ゴールが見えないような気がする」という違和感については、Nurse Practitionerさんが、「みんなゴールは一緒なの。スタートラインに立つことだから。そこに着くまで、いろいろな道を通る赤ちゃんがいて、いろいろな問題にあたってしまうけれど、私たちの役目はそこを超えられるようにお手伝いをすることなんだよ。」と、諭してくれました。
「知りたいことはなんでも聞いて。やってみたいこともなんでも言って。」と、言ってくださったCourse Directorの先生のご厚意もあり、それに応えられるよう、毎朝一番に担当の赤ちゃんたちに会いに行きました。夜シフトの看護師さんに様子を聞いて、身体所見をとって、検査データを確認する。プロトコルに沿って行われている治療や、その日予定されている検査等について確認する。問題があるようならば回診時に上告し、一緒にプランを立てる。基本に忠実な実習です。とても、ぜいたくな実習です。疑問に思ったことはその都度質問する機会が与えられ、時間があるときには、興味のある課題についての小講義を受けることもできました。
また、このころから、日常を新鮮な気持ちで見つめなおすようになりました。「自分は一人では何もできない存在で、他の人がいてくれるからこそ生活できる。何事も『当たり前』なものはなく、それは誰かがその人自身の時間を使ってくれた結果なんだ」、と。どんなことに対しても自然と、「ありがたい」「うれしい」という気持ちが湧いてきました。
出発前の学部長のお話が、3ヶ月かけてようやく理解できたのかなと思います。赤ちゃんに還って、それまでの思い込みから自分を解き放つこと、自分の殻から出てくること。自分の周りの人、自然、歴史に感謝すること。
"There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is a miracle." -Albert Einstein

Phillyの人情
日本とちょうど地球の反対側にあるアメリカの古都、Philadelphia。現地の人たちは愛着をこめて、自分たちの街を "Philly" と呼びます。最後に、3ヶ月間のPhillyでの生活を通じて感じたことを述べます。
Phillyの街の人たちと、挨拶を交わす。「おはよう」「今日も元気だね」。
病院スタッフと、先生方とやりとりをする。「Naomiは日本から来ていて、大変じゃない?」「私、日本に行ったことがあるのよ」「日本ってすばらしいところよね」。
患者さんの家族と話をする。「遠いところからWelcome!」「Naomiはせっかくはるばる日本からPhillyに来てくれたんだから、たくさん楽しんでいってね」「Naomiみたいなやさしい医学生なら大歓迎だわ」。
どれも皆、私のことを思いやってかけてくれた言葉です。"Make yourself at home" と、私が気持ちよく過ごせるよう、常に配慮してもらっていた気がします。患者さんの家族等、場合によっては、それどころではない人もいたはずです。Phillyの人たちの懐の広さを感じました。彼らにとってはそれが当たり前の接し方なのかもしれません。しかし、この「基本的な」人対人の関係が、今、日本において失われつつあるものなのではないでしょうか。他人とかかわりを持つことを「疎ましい」「面倒くさい」、場合によっては「怖い」と思う人も少なくないのではないでしょうか。お互いを思いやって、礼儀をもって接する。そこに信頼や感謝の気持ちも生まれる。私たちはもう一度、自分たちの根っこに還って、人と人とのつながりを見直していく必要があるのではないかと思いました。
Phillyで触れた「人情」。そんな恵まれた、あたたかい環境だったからこそ、私も自分の殻から抜け出し、素直な気持ちで彼らに接することができたのだと思います。
本当に、たくさんの幸運な「出会い」に支えられた3ヶ月間でした。

謝辞
この機会を与えてくださった、名古屋大学の先生方、支えてくれた事務の西尾さん、留学という道を築いてきてくださった先輩方、University of Pennsylvania Global Health Programsの皆様、そしていつもわたしたちのことを気にかけてくれていたPhillyの兄貴、Akira先生に感謝します。実習でお世話になった先生方、病院スタッフの方々、実習生として私を受け入れてくれて本当にありがとうございました。CHOPのこどもたち、ICNの赤ちゃんたち、みんなのがんばる姿はずっと忘れないからね。ご家族の皆様の、わが子に対する強く、深い愛情に目の覚める思いをしました。感謝します。
最後に、うれしいときも、気持ちが弱くなっているときも、どんなときでも支えてくれたお父さん、お母さん、拓也に感謝します。ありがとう。

DUKE大学での臨床実習を終えて

宮崎 史子


私は、2007年4月より6月までの3ヶ月間、米国ノースカロライナ州のDUKE大学に留学させていただきました。留学期間の3ヶ月は、医療のみならず文化の様々な差異と共通点を通して他国について学び、また母国を再発見する時間でした。日々の一歩一歩に大小の挑戦と努力が必要な、全く新しい環境の中で、そのためにとても新鮮で楽しい日々を送ることができました。

3ヶ月の間に、私は小児感染症科と小児免疫・アレルギー科、小児内分泌科で実習させて頂きました。私の実習したのは大学病院のみであり、小児科のみでしたが、その中で感じた日本の医療現場との決定的な差異は、「時間のゆとり」です。まず、学生、レジデント、フェロー、アテンディングと、患者数に対して医師の数が多く、また各段階の医師は下の段階の医師のプレゼンテーションを受けて情報をいれた後に同じ患者さんを診察すること。また、各科間の連携も密であり、一人の入院患者さんにいくつもの科の医師が回診に訪れ、そのため一人の入院患者さんに幾人もの医師の目が行き届いています。しかし各々の科の医師は、患者さんの問題のなかで、主に自身の専門分野に関わる部分を切り取って見ていること。そして、外来診察は基本的に完全予約制であること。これらの理由で、一人の医師の仕事量には、日本に比べて「時間のゆとり」があるように感じました。その「ゆとり」の恩恵が、「EBM」と「患者さんへの配慮」のように感じました。「EBM」に関しては、日常のカンファレンスでも、また回診の途中であっても、病棟のそこら中にあるパソコンを用いて類似症例の管理や治療に関する文献を検索する様子に、なるほどEBMの実践というのはこのようなことを言うのだと納得しました。検索の結果、そのまま治療方針に関する熱い議論に突入し、病室の前でなんと2時間も、皆で突っ立ったままで白熱した話し合いをしていたこともありました。また、講演会や勉強会なども頻繁に開かれており、日常の業務と平行させて、知識や技術をさらに向上させるべくの環境が整っていました。それらの会では、皆が食い入るようにプレゼンテーションを聞き、矢継ぎ早に質問をし、うとうとしている人などおらずにとても活発で積極的な雰囲気であったことが印象的でした。「患者さんへの配慮」に関しては、一人の患者さんの診察や回診にかける時間の長いこと(ともすれば、30分~1時間に及ぶことも)、その長い時間の間に疾患や治療、副作用や予後、普段の生活についてのしっかりした説明をし、質問を聞き、治療についての様々なオプションについて一緒に話し合うことに感銘を受けました。そのように患者さんと向き合う時間を十分にとるためか、時には談笑したり、患者さんが医師に自然に質問をする姿が印象的でした。また、多種多様な医療専門職があり、数種のカウンセラーや宗教家(牧師さんなど)のカウンセリングなど、患者さんの心理的なサポートもシステムとして整っていました。
このような「EBM」と「患者さんへの配慮」を、日本においてどのように実践するか。患者数に対する医師の数を増加する政策がない限りは、一人一人の医師の努力に今後も拠るより他はないのかもしれません。日本と米国の医師の絶対的な共通点であり、この道を志したものとして誇りに思う点は、どちらの医師もそれぞれの環境の中でベストを尽くそうと努力している点でした。

実習中は、DUKE大学の先生方に非常に親切にしていただきました。外来診療や回診の間にミニレクチャーをしていただいたり、つたない言葉のプレゼンテーションでもしっかり聴いてフィードバックをしていただいたり、言葉に慣れたころには毎日外来での予診もさせていただきました。そして、多くの患者さんやご家族の、言葉もままならない怪しい外国人の私に話をしてくれ、診察をさせていただけ、最後には激励までしてくださったおおらかさと寛大さにも大いに救われました。また、米国人の友達のみならず、世界中から集まった留学生や研究者とも知り合うことができ、お互いの国の医学教育や医療システムから文化、習慣まで話し合えたことに、新たな視点や考え方を学ぶ楽しみとともに、共通言語のある幸運と重要さを感じました。台湾からの留学生の、「日本の医学部では、英語ではなく日本語で授業してるの?それは二度手間だし、遅れてるね」という言葉や、スイス人留学生の2年間の徴兵生活の話など、興味深い驚きにあちこちで出会いました。
そして文化面では、DUKE大学の患者さんの多くがこぎれいな身なりの白人層であったこと、そうでない場合には研究対象である珍しい疾患であったり特定疾患として医療費が免除されている疾患の患者さんであったことや、病院内の清掃職員はほとんどがアフリカンアメリカンやラテン系アメリカンであったことに、「人種のるつぼ」と呼ばれる米国という国の実情を垣間見る感がありました。また、コーカサスや在米2世や3世であろう見た目のみアジア人の方々よりも、アフリカンアメリカンやラテン系アメリカンの方々の方が、アジア人の私に概ね親切であったことも興味深い事実でした。

この3ヶ月はあっという間であり、しかしこれまでのどの3ヶ月よりも多くの発見と驚きという実りに満ちた期間となりました。末筆になりましたが、このような貴重で素晴らしい機会を与えてくださった名古屋大学国際交流室の先生方や学務の方々、DUKE大学の関係者の方々に、心からの感謝を致しております。どうも有難うございました。

Pennsylvania大学への留学を終えて

高井 峻


私は2007年3月から6月までの約3ヶ月間、PhiladelphiaにあるUniversity of Pennsylvania School of Medicineで臨床実習に参加させていただきました。この留学は、1つの科あたり4週間の臨床実習を3つ選択し、現地の医学生と同じように実習に参加するというものです。私が配属されて実習を行った科は、小児循環器内科、泌尿器科、整形外科脊椎班の3つです。

Pennsylvania大学は、大学病院のような病院をいくつも持っているため、実習場所も科によって様々で、私は結局全部で4つの病院で実習を行うことになりました。この3ヶ月はまさに良く学び、良く遊び、とても楽しく過ごすことができました。
最初の小児循環器内科の実習は、The Children's Hospital of Philadelphia (CHOP)で行いました。内科の入院病棟では総回診が1日のメインイベントで、日本と違って毎日全員で何時間もかけて行います。この時研修中のresidentが指導医のattendingに対して担当患者のプレゼンを行い、その後ディスカッションをしていくのですが、そのプレゼンのスピードがとても速かったので、初日にはほとんど何も聞き取れなかった衝撃をよく覚えています。問題はスピードだけでなく、小児循環器特有の略語が多用されるので、二重の外国語の世界でした。それでも数日するとスピードにも略語にもある程度なれてきて、不思議と大体内容が理解できるようになりました。担当の患者さんを持って、毎朝自分で回診を行った上で総回診でプレゼンを行い、そのプレゼンをほめてもらえる事もあり、チームの一員になったような気分を味わえました。初めの科なのでまだ戸惑いもありましたが、この4週間で、自分から動いていかなければ何も始まらず、逆に積極的になれば皆とても親切に教育してくれることを実感し、それをその後の実習に生かしていけたと思います。

2つ目の実習は泌尿器科でした。ここでは4週間でCHOPに加えてHospital of the University of Pennsylvania (HUP)、Pennsylvania Hospitalでも実習をしました。ここでの実習で衝撃的だったことは、実習時間の長さです。朝6時前に集合して総回診をする日も珍しくなく、その後オペ室で一日を過ごし、終わるのが8時ごろになることも普通です。病院によっては5時ごろから回診をする先生もいるので、学生やresidentは4時半には病院に行って、担当患者さんの回診を済ませておかなければならないのです。さすがに少しつらかったですが、オペの助手に入ると色々やらせてもらえるのが楽しく、またコメディカルの方も面白い方が多くてオペ室の雰囲気は良かったので、毎日が充実していました。看護師さんたちにも毎回自己紹介をするので、2日目には名前を覚えてくれている方も多く、1週間たって別れるときには何だか寂しい気持ちになるほどでした。

最後の実習は整形外科の脊椎班でした。Penn Presbyterian Medical CenterとHUPでの実習でしたが、外科の実習は二つ目だったので、オペ室での勝手もわかって戸惑いも少なかったです。脊椎だけで4週間は少し面白みに欠けると判断したので、先生にお願いして、関節班での実習もさせていただきました。実習も慣れてくるとだいぶ余裕も出てくるので、South Carolinaから実習に来ていた1年生の学生に対しては先輩面で色々説明していたほどです。ここで一番印象的だったのは、一人の先生が、普通ではとても学生にやらせないような手技をオペ中にやらせてくれて、「これをやった医学生は世界でお前だけだ。」と言ってくれたことです。後から、「あんなことをとても落ち着いてやっていたから、お前はきっといい外科医になる。」と言われて、誇張だとは思いつつも本当に嬉しかったです。

以上のような病院実習に加えて、普段の生活もとても楽しかったです。寮には留学生がたくさんいるので、ヨーロッパの国々から来た人たちと友達になる機会もありました。後半の2つの科は朝早くから夜遅くまで実習が続くので、家に帰っても食事をして寝るだけの日も多かったですが、週末は彼らと一緒に色々なところに出かけて楽しみました。最後の方は週末だけでは足らなくなり、夕食を食べて映画を見に行って、それからバーに飲みに行き、帰ってきたら2時で次の日は6時半集合、といった異常な生活を送っていました。楽しんだ分別れはつらかったですが、連絡を取り続けてまた会いたいと思っています。彼らと話をしていると、アメリカという国を他の国から来た人がどのように捉えているかを知ることができ、とても興味深かったです。
この3ヶ月は本当にあっという間でしたが、ここではとても書ききれないほどの多くの経験をして、大きな影響を受けました。このような貴重な体験を可能にしてくださった先生方、事務の方々を始め、お世話になった全ての方に心から感謝します。

グダンスク報告

杉本 尊史


-きっかけ-
グダンスク医科大学との交換留学制度において、留学中に奨学金が支給されるという事実はもっと強調されて良いように思います。貧しい学生にも留学の道を拓くすぐれた制度です。この制度なしに私は留学することはできませんでした。また、そもそもグダンスクへ行くのを思い立ったのも、この制度の存在を知ったことがきっかけでした。

-問いかけ-
ポーランドの公用語はポーランド語です。ポーランド語を理解できない日本人医学生は、そのままでは何もすることができません。患者さんと話すことはもちろんのこと、カルテを読んだり、カンファレンスに加わったりすることもできません。同じことをするのであれば、日本で実習した方が得られる情報量は桁違いに大きいことは明らかです。それではなぜポーランドに来たのか。この素朴な問いかけを、私は滞在中何度も反芻していました。この問いに明確で積極的な解答を与えることは簡単ではないように思えます。その代わりとして、グダンスクで私の経験したこと、感じたことをそのままに述べたいと思います。

-病院の中で-
実習は2週間ずつ6つの科で行いました。最初は救急部でした。しかし実際にここの救急部が出動するような3次レベルの救急は多くはないので、主に救急外来で実習することになりました。救急外来では、内科•外科•神経内科各科からの医師が日替わりで当番をしています。毎朝毎夕違った医師が現れて、その度に私は実習のお願いをしていました。現地の医師にとって日本人学生の実習を担当するということは、単に教えるというだけでなくポーランド語と英語の通訳をするという意味も持つことになります。忙しい業務をこなしながら、患者さんとのやりとり、カルテの内容、ナースへの指示など診察室のあらゆるポーランド語を、日本人同様慣れない英語で説明するのは相当な労力と時間を要することは容易に想像できます。最初は快く実習を許可してくれた医師もやがて忙しさと疲労にまぎれてしまって、私は手持ち無沙汰に廊下に立ちつくすようになりました。目の前をわけのわからない言語が飛び交う中にわけ入って、英語で話しかけるのも気疲れがしてためらわれました。意気込んでポーランドくんだりまでやってきたものの、勢いそのままに言葉の壁に激しくぶつかって打ちのめされました。

そんな折、内科の当直で外来をしていたAdamに会いました。彼は私を常に忙しくさせてくれました。次々に私に質問を浴びせました。患者さんと私の間に立って同時通訳をしてくれました。仕事の一部を手伝わせてくれました。もっと自分をアピールしろと叱ってくれました。彼の親切以上の熱い気持ちにほだされて、私はポーランド語を覚えるようにしました。自分以外のせいにするのをやめました。そんなときには幸運が舞い降りてくるもので、他にも日本人を特別に目にかけてくれる医師たちと仲良くなることができました。ガチガチだった私の心をほどいてくれるような患者さんとの出会いがありました。ポーランド人学生が通訳を買って出てくれました。日本人を珍しがってパラメディカルの人たちが身振り手振りで話しかけてくれるようになりました。彼らの拙い英語と私の貧弱なポーランド語でもないよりはましで、おかげで退屈をしのげたこともしばしばでした。どんなにささやかでも1日に1つはうれしいことが必ず見つかるもので、それでその日は幸せな気分になれる、そんな心の余裕ができました。その後救急部の実習期間が過ぎて他の科に行っている間も、夕方には救急外来にお邪魔させてもらいました。

-病院の外で-
一口に空手と言っても様々な流派が存在している中で、グダンスクで見つけた空手道場が私の所属する松濤館流であったことは、私にとっておそらくポーランドで最大の幸運でした。その空手の先生は英語を解して、日本人留学生を歓迎してくれただけでなく生徒に空手を教えてやってくれないかとまで言ってくださいました。生徒の大部分は高校生以下の子供達で、黒目黒髪の外人にとてもよくなついてくれました。腕に覚えのある大人たちは何かと日本人に挑んできて、私も日本の黒帯の格をおとしめないようになかなか必死でした。稽古が終わった後の帰りしな、子供たちと残された時間を惜しみつつ、わいわいしゃべりながら歩くのはとても楽しい時間でした。

-答え-
結局ポーランド語は最後までわからないままでした。そのために実習で歯がゆい思いをしたことはたくさんありました。一方で、日本人というだけで興味を持たれて得をした経験も数多くありました。両者はいわばコインのようなもので、一つの現実の異なる側面を見ているだけにすぎないということに気がつきました。私の心のあり方を映し出して、裏に表にとゆらいでいた3ヶ月でした。
空手を教えるのをとても楽しみました。地域の中でささやかながらも自分に役割が与えられ、それを通じて地元の人々と関わることで、グダンスクの土地に両の足をつけて生活している実感がありました。私にとって最後となった稽古の日に、生徒たちが読み上げて渡してくれた手紙は決して忘れてはならない宝になりました。
なぜポーランドなのかという問いに対する説得力ある解答を提示するには、私の分析能力はあまりにお粗末です。しかし、再びグダンスクに帰ってきたいと、出国の車内で想いが自然に湧き出したことは、その答えのあり方を示唆しているのではないかと思います。歴史ある美しい街グダンスクに私を巡り合わせてくれた全ての方々に感謝致します。