教室の歴史History

名古屋大学大学院医学系研究科

名古屋大学医学部は明治4年(1871年)5月に、仮病院・仮医学校として発足し、以後、義病院(明治5年:1872年)、病院医学講習場(明治6年:1873年)、公立医学所公立医学講習場(明治9年:1876年)、公立医学校(明治11年:1878年)、と変遷、その後愛知県立医学専門校に至るまで、耳鼻咽喉を病む患者は多数あったが、その診療はすべて外科にて行われていた。 明治36年(1903年)7月、専門学校令により、愛知県立医学専門学校と改称され、(所在地は名古屋市中区天王崎町)その際に新たに、耳鼻咽喉科、皮膚病花柳病科、精神病科の三科が新設されることになった。しかし実際に耳鼻咽喉科の看板を掲げて診療を開始したのは、同38年(1905年)7月であり、初代教諭の中村豊が、愛知病院本館の中央宿直室階下の仮の一室を診察室として治療を始めた。耳鼻咽喉科の講義は同年9月から始まり、これは当時の医学専門学校中で2番目であったという。その後新たに皮膚科と共同の木造建築が出来、6室ほどの耳鼻科の診察室に移転した。

大正2年(1913年)に、学校と病院は現在の鶴舞公園前に新築移転。大正9年(1920年)大学に昇格し愛知医科大学となり、大学予科も設置され、翌10年(1921年)には学位規則も定められた。さらに、昭和6年(1931年)に県立から官立に移管され名古屋医科大学となった。

この時代、大正5年に愛知県立医学専門学校に赴任し以後、愛知医科大学、名古屋医科大学教授を務めたのが第2代教授八木澤文吾である。八木澤は「血液学の八木澤教授」という名を耳鼻科学界に周知させたように、その業績のうち特記すべきものは、本邦初の「アグラネトトチトーゼ」の発見で、口腔底フレグモーネの症状を呈した患者の白血球欠如から本疾患を認定し、以後「顆粒細胞減滅症」なる八木澤の邦訳は医師の常識となった。 昭和14年(1939年)、名古屋医科大学は名古屋帝国大学医学部となり、阿久根睦が第3代耳鼻咽喉科教授に任命された。昭和18年(1943年)には医学部付属医院に分院が設置され分院にも耳鼻咽喉科が設けられた。昭和20年(1945年)医学部付属医院は空襲によって大半焼失し、耳鼻咽喉科はわずかに焼け残った外来と病棟の一部で診療を行った。

昭和22年(1947年)には名古屋大学と改称され、同年、第4代教授として後藤修二が着任し、以後の教室の研究テーマは「内耳性難聴と中耳炎の手術的療法」に関するものである。昭和24年(1949年)には新制大学へと移行する。昭和25年(1950年)には応急教室が新築されて耳鼻科は移転、昭和37年(1962年)には耳鼻咽喉科外来が新築、さらに昭和39年(1964年)には臨床棟が完成し、耳鼻咽喉科学教室はその5階に移転した。

昭和44年(1969年)3月に後藤教授が定年退官し、昭和47年(1972年)に第5代の教授となったのが三宅弘である。教室の研究を突発性難聴を主とした感音難聴にしぼり、大型チャンバーによる高気圧酸素療法を開発した。 また、厚生省の難病に指定された「突発性難聴」「突発性の感音難聴」の班研究に教授時代の大半を費やし、全国多数の学者と共に原因不明の感音難聴の学術的研究を推進した。 昭和57年(1982年)、第6代教授に柳田則之が就任した。 すでに厚生省班研究「急性高度難聴」の班員として活躍しており、以降、教室の研究は「突発性難聴」に加えて「気圧性外傷」「中耳手術的療法」を中心として行われた。

平成9年(1997年)、第7代教授に中島務が就任した。中島教授在任中の平成13年(2001年)に医局が臨床研究棟1号館12階に移転し、平成17年(2005年)に教室開講100周年を迎えた。メニエール病症例の内リンパ水腫のMRI画像評価を世界で初めて報告し、以降教室の中心研究へと発展していった。

平成28年(2016年)、第8代教授に曾根三千彦が就任し現在に至っている。

名古屋大学耳鼻咽喉科学教室

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