名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


9.県立医大から官立医大へ


 愛知医科大学は東海に初めて誕生した大学であったが、当初、発足したのは3年課程の予科であり、予科第1回生の卒業を待って、大正11年8月、大学本科の入学式が挙行された。熊谷の後任であった山崎正董が学長に任ぜられ、同時に11人の教授が任命されたが大部分が留学中であったので、東京、京都、九州の各帝大教授が講義を代講した。同年12月、当時、世界的権威であったレオノール・ミハエリスが医化学講座の教授として招聘された。
 大正12年には欧文紀要Aichi Journal of Experimantal Medicineが創刊された。又同年関東を襲った未曾有の大震災に際しては、本学は前後4回に亘り被災地に救護班を送って2,000人の市民を診療介護した。
 大正14年山崎は熊本医科大学長兼務となったが、兼務が批判されたため本学長を辞任した。大正末、本学は学長小口、病院長兼皮膚科花柳科 田村、同太田、内科勝沼、外科桐原、歯科北村と臨床系は教授を揃えていたが、基礎系は解剖佐藤、薬物林の2教授のみであった。本学への県費補助は僅か、十数万円、これに県債償還の負担も加わり、経営を病院収入に依存せざるを得なかった苦境が教授配置からもうかがわれる。当然、研究費などは捻出不可能な財政状況であり、附属図書館すら建設できず、学生用には同窓会が1棟を借り図書館活動を行っていた。
 この状況打開には、帝国大学への発展昇格が最善であり、官立医科大学への移管が次善の策であった。大学当局、同窓会「鶴天学友会」、名古屋財界・政界は一丸となって「... 本州ノ中腹... 鉄道ノ集中ニヨッテ脈絡ノ帰趨スルトコロ」名古屋に「総合大学ノ実現ヲ期」した。
 しかし日本がファシズムへ突入する昭和恐慌期の財政下で、熊本が官立医大に移管し、大阪の帝大昇格もま近いとあっては、名古屋までもは帝大昇格は覚束ない、との判断で、請願は次善の策「官立移管」に絞られた。
 一方、愛知県は官立移管に備え、敷地の拡充、病院の増築、附属図書館の新築等々着々と施設を整えた。
 昭和5年3月、「十年間は収入支弁に関して政府を煩わさず」の一札を入れて、ようやく官立移管は帝国議会で承認され、翌6年5月1日、名古屋医科大学として発足した。後日、「5月1日」が本学の開学記念日と定められた理由の一半である。
 慶賀すべきこの5月、本学は一転して暗澹たる空気に包まれた。愛知医専以来生え抜きの教授8名が馘首され、新たに東大閥の輸入人事が行われたためである。特に助手層は助手団を組織し、ハンガー・ストライキを含む罷業によって反対運動を展開したが、学長藤井静英は人事の撤回を肯ぜず、自らの学長退任によって事態を収拾した。「唯澄む中天真如の月」とはその辞任の弁である。

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