名古屋大学医学部史料室 English


医学部史料室は、医学部分館の4階に設置されています。名古屋大学医学部の歴史を、東海地方の中で位置づけ、将来を展望する場として、医学部及び医学史、医療史に関連する古医書、歴史的医療器具、写真等を収集、保存、展示しています。ここではその一部をご紹介します。実際の利用は受付カウンターに申し出てください。


4.洋医学校発足への曲折


ヨングハンスの『原生要論』

 明治4年(1871)8月(『院校第一報告』は5月説)、名古屋県は評定所を仮病院に、続いて町役所跡を病院付属の仮医学校とし、ポンペの教を受けた張三石を教師に、鈴木甲蔵を助教に採用して発足させた。この時13歳で入学した三輪徳寛(後、千葉医科大学長)は「...生徒は二、三十人くらいで... 年令もまちまちであった。授業も規則正しく行われない。ただゴチャゴチャと集まって、各生徒は思い思いに学習していた。教え方も... まず教師が問題を出して生徒の一人にやらせる... 誰も出来なければ教師が教えるというふうであった」と寺子屋まがいの往時を回顧している。
 しかし、仮病院は明治5年2月、県政改革の際一時廃院、仮医学校は同年8月の「学制頒布」に基づく文部省布達によって、廃校となる。共に1年前後の短命であった。尤も病院は同年8月より翌6年2月まで「義病院」(有志による私的経営)として僅かに永らえる。
 病院・医学校の再興政策として、時の愛知権令井関盛艮は民間活力への全面的依存策をとった。
 1)民間拠出金として尾張三河30万戸より1万両徴収。
 2)豪農、富商を病院幹事に任命。
 3)病院復興のシンパサイザーとして、元奥医師クラスの民間医を病院付属医に任命。
 明治6年5年権令井関はまず、病院を西本願寺別院に再興し、「外国教師ニテ教授スル」文部省布達を念頭に置いて、独系米人ヨングハンスを月給四百ドル3年契約で教師に迎えた。既に侍医の地位を退き病院付属医に任ぜられていた中島三伯も「愛知新聞」紙上に一文を寄せ、病院を院外から支援している。本県病院ヲ設立「ヨングハン」氏ヲ教師トシ... 日ニ将ニ盛大ナラントス同氏ハ有名ノ大家学術精妙... 速ニ就テ治ヲ請フ可シ...慣習ノ久キ世人概ネ空理臆断ノ漢方ヲ信シ却テ精確実測ノ洋方ヲ疑ウ 愚モ亦甚シ...

 三伯は又、権令井関の求めに応じて「医学校設立... 見込忌憚ナク申立ツ可ク旨御談ニ付」で始まる医学校創設建議書草稿をも残している。三伯らの建議を承けた形で、病院に付属した「医学講習場」が設けられ、英語で授業が開始されたのは同6年11月であった。しかし、実際に軌道にのったのは、翌7年の11月である。講習場については、仮規則等が存在し、愛知病院蔵書印のある自然科学教科書が複本で残存する等の断片的事実は判明しているが、その全容は明らかではない。
 ヨングハンスは、本邦初といわれる火傷への植皮手術を行い、又、本学最初の学術書『原生要論』を著すなどの足跡を残したが、脚気を患い、契約も満期となったので、明治9年4月本講習場を去った。愛知県は七宝焼花瓶一対と百五十円を贈与してその功に報いた。
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