1945年 『空襲ニ因ル外傷患者ノ治療成績』

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史料名 『空襲ニ因ル外傷患者ノ治療成績』
元号 昭和20
西暦 1945
内容 昭和20年(1945年)2月初めごろ、名古屋市の空襲が烈しくなるに従い、負傷者が激増し、その大部分は附属医院での治療を求めました。 勝沼精蔵附属医院長は、少なくとも応急治療用器具と薬品の一部は、瀬戸町に借用できそうな鉄筋コンクリートの家に疎開させる必要があるとして輸送用トラックの斡旋を依頼し、渋沢総長は県に交渉しました。 しかし、県は、医院が名古屋を離れることを市民は嫌い、趣旨には賛成するが、未だ空襲の惨禍を知らないということで、融通してくれたトラックは少なく、3月の空襲前までに極めて小部分を疎開させただけでした。 『空襲ニ因ル外傷患者ノ治療成績』は、昭和20年3月19日以降終戦までの記録です。 空襲ニ因ル外傷患者ノ治療成績 : 名古屋帝国大学医学部附属医院救護病院救護班||クウシュウ ニ ヨル ガイショウ カンジャ ノ チリョウ セイセキ : ナゴヤ テイコク ダイガク イガクブ フゾク イイン キュウゴ ビョウイン キュウゴハン [名古屋] : [名古屋帝国大学医学部附属医院] , [1945?] [5]枚 ; 26cm
形態 [5]枚 ; 縦25.7cm×横18.5cm
区分 文書

近代医学黎明デジタルアーカイブ
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