1876年 後藤新平

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史料名 後藤新平
元号 明治9
西暦 1876
内容 後藤新平(ごとう しんぺい 1857-1929)は、仙台藩(水沢藩)・陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の岩手県奥州市)の出身です。 明治9年(1876年)愛知県公立病院に着任し、明治14年、24歳で病院長兼医学校長となりました。明治15年、岐阜市で板垣退助(いたがき たいすけ 1837-1919)が暴漢に襲われた時、往診を求める電報が後藤に届きましたが、政府を恐れる県庁は許可しませんでした。再三の電報に意を決した後藤は岐阜へ二人牽き人力車で駆けつけ、「御本望でしょう」と一喝し、リスター氏消毒を施しました。この時、板垣は後藤の言動応対から放胆な決断力を感知し、政治家でないことを惜しんだ、と伝えられています。 明治16年、長与専斎(ながよ せんさい 1838-1902)の招きで内務省に任官し、後に東京市長、内相、外相などを歴任し、明治から昭和にかけて日本の政界で活躍しました。
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近代医学黎明デジタルアーカイブ
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