小児科学教室のあゆみ
坂本 陽 教授
昭和7年2月 〜 昭和35年3月
 
 
 昭和9年12月、坂本陽助教授が小児科教授に任ぜられた。昭和10年4月、国武保夫先生がハルビン医科大学小児科教授となった。昭和14年2月、中江亮一先生が、名古屋医科大学助教授に昇任。同年3月に、名古屋医科大学は廃校となり、4月、名古屋帝国大学医学部となった。昭和18年3月、第48回日本小児科学会総会(名大医学部講堂)が、坂本陽教授を会頭として開催された。昭和20年4月、名古屋市立女子医専が設立され、相沢澄雄先生が小児科教授に就任。昭和22年8月、浅野清治先生が、名古屋大学附属医学専門部教授に就任。同年10月名古屋帝国大学は名古屋大学医学部となった。昭和26年9月、浅野清治先生、山口県立医科大学の教授として転任。昭和28年11月、順清会が多田・藤井・坂本教授の小児科合同同門会として発足した。
 この時期、小児科学教室における診療・研究は、感染症・血液疾患・疫痢など多方面に及んだが、特記すべきは、教室として乳児白色便性下痢症「白痢」の病態解明に取り組み、単一ウィルスを病因とする説を早くから発表したことである。この説は後になり、1973年ロタウィルスの発見により裏付けられた。
 昭和29年4月、坂本教授は分院長となり、同年11月藤井静英前教授の古稀、坂本陽教授開講20周年祝賀会(粟山重信東大名誉教授ご出席)が井清寿にて開催された。昭和30年1月、小児科同門会順清会報一号が発刊された。昭和31年11月、第1回中部日本小児科学会(名大医学部図書館)の懇談会を開催し、昭和34年、坂本教授会頭で、小児保健研究会(松坂屋大ホール)が開催された。昭和35年3月、坂本陽教授退官。